「ルナあ! ごめんね、遅くなっ……、」

 

エレベーターのある廊下から、すぐこちらに曲がってきたミシェルは、ただならぬ様子にあわてて口をつぐんだ。もう、ララが来ているとは思わなかったのだ。

(ヤベ)

絵に見惚れていたであろう時間に、ふいに突入した来訪者――ミシェルを驚きの目で見据えたララの表情に、不機嫌がやどるのをミシェルは見た。

 

「あ――す、すみません……」

神妙な空気をぶちやぶってしまったことだけは、ミシェルにもわかった。

なんとなく、黒髪の男に、睨まれているように感じる。ララにも。

もうすこし遅れてくれば良かった、とミシェルは後悔した。おそらく、この場に自分はお呼びでなかっただろう――だが、アンジェラの講習会のチケットを融通してくれたのはララだ。ミシェルなりに、礼を言っておきたい気持ちはあった。

クラウドに聞かされていたイメージもつよかったし、あのパーティー会場の一件もあったせいで、ララは怖い人だという刷り込みは消えていなかったが、挨拶くらいしなくては、ますます気まずい。

 

ミシェルは恐る恐る、

「は――はじめまして。ミシェル・B・パーカーです」

と小さく頭を下げた。

 

ララの反応は、ミシェルが想像したどれとも違った。

 

「ミ――ミシェル・B・パーカー!?」

 

煌めくドレスの影がゆらりと立ちあがったかと思うと、ズダーン! とものすごい音がした。それが、ララがミシェルの前にひざまずいた音だと分かるのにミシェルは――寸時、要した。

 

「ミ、ミシェル・B・パーカー!? あなたが!? あなたがミシェル!?」

両手を握りしめられ、ミシェルは若干、引いた。

「は、はい――ミシェルで――」

「お会いできて光栄です!!」

「――はい?」

ミシェルにはい? 以外の返事が可能だったろうか――可能なわけはない。ミシェルは、頬を紅潮させて自分の足元にひざまずいている人物がだれなのか――一瞬でも、不明になりかけた。

 

「あ――こち――こちらこそ――お会いできて光栄です――」

ミシェルは、両手をララにつかまれたまま、へっぴり腰でやっとそれだけ言った。

「信じられない――信じられない。ほんとに、今日は最高の日だよ! ルーシー、どうして、どうして、まあ!!」

ララはルナとミシェルを交互に見て、興奮気味に喋った。

「アンジェの言ったとおりだ――ルーシーがあたしに、百五十六代目サルーディーバの生まれ変わりと出会わせてくれるって――まさか、今日にかい? ルーシーとの再会の日に!? ルーシーに出会えたあげく、船大工の兄弟の絵も手に入って、あたしの憧れのひとと――ああ――あたし、しあわせで溶けちまいそうだよ――!!」

 

ララの有頂天ぶりには、ルナも目をぱちくりとさせ、それ以上にミシェルの腰が盛大に引いていた。

「はじめまして――あたしはララ。ずっとあなたに、会いたかった――」

「――あ、ああ……あ、ありがとう、ゴザイマス……?」

「シグルス!!」

ララはしばらく、ものすごい目力でミシェルを凝視していたが、やがてすっくと立って、秘書に手を出す。秘書は――シグルスは、心得たように、ララの手に、ペンと小さなノートにみえる紙の束を渡した。

ララがそれにサラサラとなにか書きつけ、一枚破って、ルナに渡した。ルナが戸惑いながらもそれを受け取ると――その紙切れが小切手だということが分かった。だがルナは、そこに書付けされた金額を見て――「んん?」と唸った。

ぜろが、いち、じゅう、ひゃく、せん、まん――。

うしろからそれを覗き込んだミシェルともども、ものすごい勢いで噴いた。

 

「五億!?」

 

「もちろん、あの絵のお代だよ。ルーシー」

ララは、ルナが突き返すことを予測していたのか、ルナの手ごとにぎりしめて言った。

「ダメだよ。これは受け取っておくれ」

「でも、あたしはなにも――何もしてないんです。ほんとに。そのっ……夢を見ただけで。この絵も、理由は分からないけど、サルーディーバ記念館から送られてきて、」

 

「ルナ」

ララはルナの肩を抱きしめて言った。

「あなたは――なにもしていないかもしれない。でもこれは、わたしの、ルーシーへの感謝の気持ちなんだ。彼女には、どれだけ良くしてもらったか分からない」

「でも――」

「あなただけじゃない。ミシェルへの報酬でもある。あの絵を描いたのは、ミシェルの前世だからね」

ミシェルも、困ったように頭を掻いた。前世だと言われても――覚えがないのだ。

ミシェルには、あの絵を描いた記憶など残っていない。

 

「あなただから、わたしは、この小切手を渡したんだよ」

「え?」

ルナは戸惑い、おもわず聞いた。

「昔のルーシーだったらこういうだろうね。『ビアード、ひとにいいことをすれば、いつか返ってくるのよ。幸運は巡るものだから』」

ララは歌うように言った。

「『幸運は、ひとところに留まらない。不幸も同じ。巡るもの』。――あなたには、巡り巡って返ってきただけのものさ。わたしだって、物のわからないやつにこんな大金を与えたりはしないよ」

ルナは、ララをみつめた。ララの目は、ルナを慈しんでいた。

「あなたが、だれよりも有益にそのお金をつかってくれるから――渡したのさ。あなたは、昔からそうだったから」

 

でなければ、宇宙船内の美術館の創設に、あれほどの投資をすることはなかった、とララは言った。ルーシーは純粋に、宇宙船に乗る船客に、世界でさいこうの美術品を見せたかった、そして、そう願うビアードのために、投資してくれたのだと。

世界最高の美術館をつくるために、彼女は生涯をかけて尽力した。

 

「あなたが美術館に投資した資産に比べたら、こづかいのようなものさ」

「おこづかい!」

 

ルナは絶叫した。宝石商であり、宇宙船の株主でもあったルーシーにとっては、たいした価値の額面ではないかもしれないが、田舎星L77で平凡に暮らしてきた一庶民、ルナにしたら、気の遠くなるような数字であることは違いない。

(宇宙船のチケットが五枚もかえます……)

隣のミシェルを見ても、目と口が真ん丸になっていて、金額を指さしておおげさに両手をひろげて、肩を竦めた。

ララはシグルスとなにか話している。ルナには、ララがこの小切手を返して欲しくないと思っていることは分かっていた。――でも。

 

「真砂名神社に奉納するって考えは、なしだからね」

ルナがほんのすこし思ったことをピタリと言い当てられて、ぴーん! とウサ耳が立った。

「真砂名神社には、今回のできごとへの感謝として、しっかりあたしが奉納させてもらうよ――そっちはそっち。これは、これ。絵だって、もちろんあのギャラリーに納めさせてもらうしね。――そんな、おおげさに考えなくていいんだよ」

「……」

「あなたが、必要だと思ったときに、つかえばいい。きっと見つかる。あなたなら、見つけられる。というよりも、」

ララは、笑った。いたずらっぽく。

「あなたにはきっと、必要になるさ」

「必要に……?」

ルナはもういちど小切手に目をやったが、まったく使いみちが思い浮かばなかった。宝の持ち腐れとはこのことではないだろうか。

 

ルナとミシェルが小切手を呆れ顔で眺めているあいだに、またたくさんの人間が駆けつけてきて、船大工の兄弟の絵を、それはそれは慎重に、五人がかりで運び出した。

「ていねいに、ていねいにね! 一筋たりとも傷をつけようもんなら、同じ傷をつけてやるからね!」

ララの凄みのある脅しは、こうさぎと子猫を竦みあがらせるのにじゅうぶんな迫力を持っていた。絵が業務用エレベーターのほうへ運び込まれるのを見届けると、ララとシグルスはルナたちのいる場所へもどってきた。

 

「まあいいさ! 積もる話をしよう。シグルス、応接室は空いていたっけ」

「はい。ではお先に。わたしはお茶のご用意を」

「頼むよ」

ルナとミシェルの肩を抱いて向かおうとするララに、ふたりは怪訝な顔を向けたので、ララは拗ねるように言った。

「なんだい? もう帰るなんて、そんな寂しいことを言うんじゃないだろうね?」

ララは、ララだった。

過去や前世がどうであれ、いまや宇宙船の株主であり、大きな会社や財団のあるじであるララの貫録に、ちっちゃなうさこと子猫が、否やを唱えられるわけがなかった。