ララに連れていかれた先は、五階にある応接室だった。

ダンスパーティーができるほどの広間で、敷かれた絨毯と天井を飾るシャンデリア、そして壁に飾られた絵画たちはたいへんに趣味の良いものだった。ソファやテーブルの調度品の数々も、ふるめかしくも豪華だ。

 

「あっ! これ――アンジェラの!!」

ミシェルは部屋に入ってすぐ、壁を一番大きく覆う、魚の絵にとびついた。波打つガラスの板に得も言われぬうつくしいブルーが映える。窓から差し込む光の加減で、波間を魚が泳いでいるように見える。アンジェラの作品によく出てくる、独特の青と魚だ。

 

「アンジェラファンだっていうのは、本当なんだね」

ララは、苦笑しているようにみえた。嬉しい気持ち半分、苦笑半分。

「悪いことをしたね。――講習会はさんざんだったろう」

アンジェラの生み出す光彩に見惚れていたミシェルは、あわてて答えた。

「あっ、いや――いいんです。終わったことだし」

シグルスがワゴンを運んできたので、ミシェルとルナもララに促され、きれいな刺繍のテーブルクロスがかけられたテーブルに着いた。

 

「今日は、ララさんにお礼を言おうと思って、ルナについてきたんです」

ルナが一緒に行こうと言ったのだが、ミシェルは、ララに会うなら、礼をいおうと思っていた――それも事実だった。

「講習会のチケット、融通してもらって、ありがとうございました」

ミシェルが頭を下げると、ララは微笑んだ。

「礼を言われることじゃない。逆にあたしが謝らなきゃいけないよ。アンジェラの暴言をね――」

「いやあの――それが」

ミシェルは、アンジェラが会場に入ってきて、それから自分がエレベーターで階下に降りたところまでの記憶が、すっぽ抜けていた。

どうやってあそこを出て来たのか、まるで思い出せないのだ。

前夜に見た、夢の記憶もすっかりなくなっていた。青い猫に、シネマのように一日の出来事を見させられた。そのことは覚えているが、内容はすっからかんだ。

 

「や――たぶん、アンジェラが出てきた興奮で、みんなすっ飛んじゃったみたいで。覚えてないんです……」

ミシェルは苦しい言い訳をしたが、ララの表情は笑ってはいなかった。

 

「“鏡”だといわれたことも? 覚えていない?」

「鏡?」

ララは話した。――アンジェラはミシェルの目が鏡だといい、ひどく怯えていると。

「おびえ……」

ミシェルは絶句したが、記憶にないため、コメントのしようがなかった。

「あたし、なんかアンジェラさんに失礼なことでも――」

「いや、あなたはなにもしていないよ」

ララは首を振った。

「あなたは、アンジェラに悪態をつかれて、講習会場をあとにしただけさ。あのとき同席していた講習会のスタッフも、アンジェラのほうに怒っていてね――なにしろ、いつものわがままで講習会をだいなしにした。あなたに申し訳ないとしきりに言っていてね、あなたへの攻撃をダシにアンジェラを講習に連れ出したスタッフもクビにした。――覚えていないというなら、そのあたりは、クラウドに聞くといいよ。あたしたちのせいで、アンジェラはあなたに、個人的な悪意があった」

「……」

「おそらく、もうそろそろ、アンジェラの画集とグラスが自宅に着くはずだ。あんなことがあったからね――嫌でなければ、受け取って欲しい」

 

「マジですか!?」

ミシェルは絶叫した。感激のあまりにだ。

「あたしも!? もらえるの!? アンジェラのグラス!!」

 

「もちろん」

ララは鷹揚な笑みを返した。

「それから講習会費は、参加者に全額返したよ――あなたの口座にも」

「あの――あの――不躾ですけれども――グラスは――グラスのデザインは、どんな――」

「“星屑”だよ。アンジェラがこの宇宙船に乗りたてのころ、夜空を見ながらつくったものだ。最新作とは言えないが――」

「うっそ!? “星屑”!? あたし欲しかったの!!」

あのコバルト一色の! 画集で見たやつ!! と大興奮のミシェルは、さっきのララとたいして変わらない勢いで、まるで拝むように両手を組んだ。

「し、信じらんない……夢みたい……アンジェラのグラスが……もういっこ手に入るなんて……!」

 しかも、すでにミシェルが持っている“マルカ”とは別のグラスだ。

ララはミシェルの喜びように目を見張り、また苦笑した。

「あなたは、あんなことがあっても、まだアンジーの作品を好きでいてくれるんだね」

「いや関係ないですよ、てか覚えてないし。綺麗なものは綺麗です! あたし、アンジェラのガラス作品、だいすき!!」

 

ちょうど紅茶が蒸らされ、シグルスが花模様のカップに、しずかに注いだ。ふくよかな香りが部屋を満たす。そして、ワゴンからテーブルに乗せられたのは、アフタヌーンティーセットだ。三段のスタンドに、小ぶりなケーキにサンドイッチ、スコーン、マカロンが彩りよく載せてある。

小動物の顔が輝くのを、ララも確かめた。

「急だったからねえ、これしか用意できずにごめんよ。――こういうのは好き?」

「だいすき!」

ルナとミシェルは、声を揃えて叫んだ。ララは、頬杖をついて、じつに嬉しげに二匹の小動物を見守った。

 

ララは、ルナとミシェルの話を聞いた。おもにララが質問し、ふたりがそれにこたえることの繰り返しだったが。二人の出自から、親のことから、宇宙船に乗る経緯から――それはもう、根掘り葉掘り聞いた。ララは二人を知りたがった。そうして、やっと、聞くことは締めにでもするように、ララは言った。

 

「困ったことがあったら、なんでも言っておくれ。ほんとうになんでもさ――あたしにしてほしいことがあったら、なんでも」

ルナとミシェルは、顔を見合わせた。

「あたしは、どんなときでもあなたたちの味方さ。――アンジェにも聞いたよ。ルナ、あなたはメルヴァに命を狙われているとか」

 

ルナは口の端にジャムとクロテッドクリームをつけたまま、うさ耳を跳ね上げた。

このところ、すっかり忘れていたのだ。

 

「あたしが、メルヴァを決して宇宙船に近づけやしないさ。あなたの傍にもね――メルヴァは必ず、L系惑星群内で逮捕する。ヴォバール財団の名に懸けてね」

「ぼば……」

ルナはマヌケ面で、さっき展示室で見たはずの名を復唱しようとした。

ララは、不敵に笑った。

 

「あたしはね――とうの昔にほんとうの名は捨てた。けれどもね――あたしが、アロンゾ・D・ヴォバールの子孫であることには違いない。アロンゾが勢力を広げたマフィアを代々受け継いできた一族の、末裔さ」

ルナはびっくりして、「アロンゾ!」と叫んだ。

ララは得意げにも見えた。おそらく、アロンゾの子孫であることを誇りに思っているのだろう。

「自分の愛した女に銃をぶっ放したろくでもない先祖ではあるけれどね――大物だったよ。一族に類を見ないほどの。――あたしの誇りさ」

アズラエルが謎のくしゃみをしていたことは、ルナに分かるわけもない。

 

「で、このシグルスが、ビアード直系の子孫だよ」

「ええっ!?」

ルナの驚愕の声に、シグルスが小さく頷いた。

「そのとおりです。私はララ様の秘書のシグルスといいます。シグルス・B・カテュス――ビアードの、子孫に当たります」

「ほげ……」

ルナは間抜けな顔で、間抜けな声を上げるほかなかった。

ルーシーには、程遠いアホ面で。

 

「心配いらないよ――もう、ミヒャエルにも話はつけてある。ヴォバール財団は、L20の軍隊にもツテがあるのさ。ミラ首相にもね。だから、大船に乗った気持ちでいな。あなたを決して危険な目には遭わせないよ――ルーシー」

そう言ってララは、しなやかな手指で、ルナの口端のクリームを拭った。ミシェルが隣で噴く音は、ルナにも聞こえた。ララはいっそ、唇で舐めとるような勢いだったからだ。ナプキンがあって助かった。ミシェルの口の中のアボカドは、挟んだパンごと宙に舞い散る運命を免れた。