(自分にできることは、なにもない)

 

 自分の書いたものに、目を通してもらえるとも思えない。

 でも、どうせ目を通してもらえなくても、歴史研究家やみながとっくに知っていることでも――できうるかぎりの情報を、記入してみよう。

 いまのあたしに、できることを。

 用紙はたった一枚だが、「忌憚なく意見を述べよ」と書いてあるし、一枚におさめろとは、どこにも書いていない。

 

 (よおし)

 

 電話を切ったフライヤは、腕まくりをした。

 L03オタクの――嵐のようなタイピングがはじまった。

 

 

 

 

 (――おや)

 エルドリウスは、深夜一時に帰宅したのだが、フライヤが寝室におらず、書斎の方からあかりが洩れているのに気付いた。

 かれは軍装のままそっと書斎の扉を開け、パソコンに向かっているのがフライヤだとわかると、ついでのようにノックをした。

 

 「あ、エルドリウスさんおかえりなさい」

 よほど集中していたのだろう。思い切りカツカツと軍靴を響かせて廊下を歩いたはずなのに。ノックするまで気づいてもらえなかったエルドリウスはあきれ、

 「ずいぶんがんばっているね」

 とフライヤのところまで来て、肩をもんだ。

 「うん。ちょっとね」

 「まだ、寝ないのかい」

 「うん――三時くらいまでがんばって、寝る」

 フライヤは目を擦りながら、またキーボードに向かった。

 「なら私も、傍にいていいかい」

 フライヤは驚いて、「え? 寝ていてもいいですよ」と言ったが、エルドリウスは笑って、部屋を後にした。

 

 エルドリウスはどこか胸をときめかせながら軍装をとき、シャワーを浴びて、寝間着とガウンに着替え、それからフライヤと自分のために紅茶を淹れた。はちみつたっぷりのロイヤルミルクティーを。

 

 (――私が、だれかの仕事のために、紅茶を淹れる日が来るとは)

 

 エルドリウスの胸のときめきをだれかに説明しても、きっとわかってもらえないだろう。シルビアあたりなら、「信じられない人ね」と憤慨しそうだ。

 エルドリウスのいままでの恋人は、彼自身が多忙であるせいか、尽くす形の女性が多かった。こうしてエルドリウスがおそくまで仕事をしていると、紅茶を淹れてくれたり、ガウンをかけてくれたり。それを当然のことと享受していた自分――鬱陶しいとおもうことすらあった自分が。

 (まさか、多忙な妻のために、紅茶を)

  意外と自分は、尽くされるより尽くすタイプだったのかなと、エルドリウスは、新たな自分の発見に驚きあきれながら、クッキーを添えた紅茶を、フライヤのもとに運んだのだった。

 

 「え!? うわ、エルドリウスさん、ありがとう!!」

 フライヤはいまでもたまにさん付けになったり、敬語になったりするが、それはあくまで年上に対するフライヤのくせの様だ。もう、最初のころのように、エルドリウスに緊張しているわけではないので、エルドリウスもなにもいわない。

 

 「わたしも、ここで本を読んでいていいかね。話しかけたりはしないから」

 「え? あ、う、うん。だいじょぶです」

 フライヤは紅茶を軽く口に含んで、キーボードで続きを打つ。

 エルドリウスはかたわらのひとりがけソファに腰掛け、読みかけの本を開いた。

 しばらく、キーボードをたたく音が続いた――三十分もたっただろうか。紅茶が冷めかけたころ、フライヤが大きな伸びをしたのが、エルドリウスの視界に入った。

 

 「う〜ん。ちょっと、休憩!」

 フライヤはさくりとクッキーを齧り、あまいミルクティーを飲んだ。

 「おいしい……。疲れた脳に効きます!」

 「それはよかった」

 エルドリウスも、本から目を上げた。

 

 「なんだか、嬉しいです」

 フライヤは、パソコン画面に疲れた目に目薬を差し、目をぱちぱちさせながら言った。

 「なにがだい?」

 仕事疲れか、昂揚しているのか――ふだんのんびりとした彼女にはないくらい、言葉がぽんぽんとリズミカルに出てくる。

 

 「こういうの、嬉しいし、楽しいです――なんだか」

 目を擦りつつ彼女は言った。半分眠ったような顔だった。でもエルドリウスは、フライヤのいわんとしていることが分かった。

 エルドリウスも同じだ。

 

 「私もだよ」

 それはほんとうにそうだった。さっきの胸の高鳴りが、それを証明している。

 「私も嬉しいし、楽しい。私の理想だったんだ――妻とこうして、同じ部屋でいっしょにすごす。私が仕事をしていて、君も仕事をしていてもいい。本を読んでいてもいい。おだやかな、時間を、ともに、――」

 エルドリウスの言葉が終わらないうちに、フライヤの頭ががつんとキーボード上に落下した。エルドリウスは深夜にもかかわらず、声を上げて笑ってしまった。

 さいわい、データは消えていないようだ。エルドリウスは慎重に、デスクトップにデータを保存し、フライヤを抱き上げて、寝室に向かった。

 

 

 朝起きたら、いつも通りエルドリウスの姿形もなかった。いったい彼は、いつ休んでいるのだろう。フライヤは寝ぼけ眼を擦りながら、ベッドから這い出た。

フライヤは、じぶんがオチたことは分かっていたので、――紅茶を飲んでからの記憶がなかったので――エルドリウスに、丁重なごめんなさいメールを送っておいた。

カレンダーをチェックすると、エルドリウスは来週まで帰って来ないことがわかった。ようするに、フライヤは夕食を作ったりせずともよい。エルドリウスさんごめんねと心の中だけであやまりながらにんまりし、ついでに掃除と洗濯もサボることにした。一週間後、エルドリウスが帰ってくるまえになんとかやっておこう。

 

 いつもどおり出勤し、じっさい、コピーひとつ仕事がなく、「フライヤさんは、レポートやっといてくれればいいよ」と上司の公認を得たので、喜んでそれに集中させてもらうことにした。一日をレポートづくりに費やし、定時に帰宅して、つづきは家でやろうと玄関扉を開けると、おいしそうな夕食の匂いが。

 

 まさか、またエルドリウスに作らせてしまったのか。それはさすがに……! とおもって、「エルドリウスさん、すみません!」とキッチンに駆け込むと。

 

 「あんた、やっぱりエルドリウスさんに作らせていたのね!」

 

 母親がいて、フライヤは呆気にとられた。

 

 「あんたは、料理が下手だから! いつ返品されるかと思っていたけどね――まさか、まさかエルドリウスさんにつくらせていたとは! あんな忙しい人に!」

 

 フライヤは、母親がいた衝撃で頭が回らなかったのだが、あわてて否定した。下手なりに、日々食事を作っていたのはフライヤだ。

 母親はうさんくさそうに娘を見――たいがい、そういうものだ――フライヤ同様、小柄な身体を反り返らせて娘を睨んだ。

 「きのう、何食べたの」

 フライヤは、おずおずと白状した。朝に菓子パン、夕飯に菓子パン、夜食にクッキーと紅茶。今朝も昼も、菓子パン一個と紅茶。テーブルに並ぶ、母親のなつかしい手料理に涙が出てきそうになりながら。

 

 「ほんとになさけない子だよ! エルドリウスさんがいないときたら、そんな食生活ばっかり!」

 フライヤには言う言葉がなかった。エルドリウスがかえってくる来週まで、そんな食生活がつづくことはすでに決定事項だった。

 もしかして、母親を呼んだのはエルドリウスだろうか。フライヤがおずおず聞くと、そのとおりだと返事がかえってきた。

 「あんたは、エルドリウスさんに心配ばかりかけるんじゃないよ!」

 あたしはあの人のおかげで仕事もしなくていいし、いいお医者さんも紹介してもらった、こんな料理も掃除もできない娘を貰っていただいて、涙しか出てこないよと母親はさんざんわめいたあと、

 「あたしが、しばらくこちらに居させてもらうことにしたんだよ! こんなバカ娘のために、お手伝いさんなんてもったいない……!」

 

 フライヤは呆気にとられた。エルドリウスは、お手伝いさんを雇おうとしていたのか。

もしかしたら――もしかしなくても、フライヤを仕事に集中させてくれるために。

去年までのフライヤだったら、まさかそんなことは考えなかったが、あのリビングが埋まるほどのプレゼントをもらったあとでは、エルドリウスがそれくらいやりかねないことは、十分予測できた。

「母さあああん!!」

「うわっ、なんだいこの子は! いいからはやくお風呂入っておいで!」

 フライヤは、温かいお風呂に入っておいしい夕食を食べながら、ちょっぴり泣いたのだった。