あわててアイリーンの足に飛びついたフライヤの背に鞭を浴びせるところで、アイリーンのほうが泡食って、のけぞりかけた。 「フライヤ、君はよけていて。これはお仕置きなんだから!」 「で、でも、泣いてるよ! な、何があったか知らないけど、これだけ泣いてれば、絶対反省してるから許してあげて!!」 「え――ええ? そういうわけには――」 「フ、フライヤあ〜、たすけてえ〜」 涙声でフライヤに縋りつく金髪と赤毛を、フライヤからむしり取ると、アイリーンは底冷えする声で威圧した。 「フライヤに免じて許してやろう。さっさと出ていけ!!」 「あ、ありがとうございますう〜、アイリーン様あああ、フライヤあ〜」 退散していくふたりを、フライヤはほっとして見送った。眠気などすっ飛んでいた。 アイリーンが部下にも恐れられているのは知っていたが、部下を叱っているところを見たのははじめてだ。アイリーンの振り下ろした鞭のせいで、赤毛の軍服の布地が破けていた。 一撃で。 フライヤはおそるおそるアイリーンの鞭を見たが、フライヤには見られたくないのか、アイリーンは決まり悪げにさっとかくした。 「フライヤ」 アイリーンは鞭を背に隠しながら、気を取り直して笑顔をつくった。 「おつかれさま。よくがんばったね」 「あ、あり、あり、ありがと……」 フライヤは、照れながら、頭をかきかき、言った。 ふたりはたがいに中途半端な笑顔のまま席に着き、アイリーンは用意していたケーキの箱をあけた。 「うわあ!」 フライヤは、歓声をあげた。紅茶のシフォンケーキをクリームとベリーでデコレーションしたケーキに、「おつかれさま、フライヤ」の文字が輝いていた。 「ありがとう、アイリーン!」 「庶務部の管理官から聞いたよ。ダンボール二箱分も資料を作ったんだって?」 紅茶をカップに注ぎながら言うアイリーンに、フライヤは「う、うん」とはにかんで頷いた。 「ちょっと、がんばりすぎたかも――あんまり多すぎても、読んでもらえるかどうか」 わたし、そこまで考えてなかった、というと、アイリーンは笑った。 「いや、君のオタクっぷりは重々承知していたが、すごいよ。きっと、ミラ様も驚かれる」 「ミラ様……?」 「要項を見なかったの。あの書類は、時間はかかるが、ミラ様もすべて目を通される。直接ね」 「ええっ!?」 要項はすべて目を通したはずだったが――あの三枚目の用紙のショックのせいで、すっかり抜け落ちてしまっていたのか。 「ああ――エラドラシスのことか。あれは――ひどい戦だった」 アイリーンの横顔が、削いだようにするどくなった。 フライヤは、言おうか言うまいか迷った。アイリーンはフライヤと違って心理作戦部の隊長で、戦争にも従事することがある。戦争に行ったこともない、ただの庶務部のヒマ人の見識など一笑に付される――いや、アイリーンはフライヤには優しいから笑いはしないだろうが、気分を悪くしないだろうかと悩んだ。 悩んだのだが、あの資料を作成するとき、フライヤは決めたのだ。 もう、怯えて、口を閉ざすのはやめよう、と。 話す相手は、いつもフライヤの話を親身になって聞いてくれるともだちだ。 フライヤは、勇気を出して、いってみることに決めた。 「アイリーン、あの――あたしの、ただのオタクの、たわごとだと思って聞いて」 フライヤは、三枚目の用紙を見たときの、自分の見解を述べた。あれは、エラドラシスのしわざではなく、ケトゥインのしわざではないかと。 しどろもどろに――アイリーンの顔色を伺いながら。 思いのほか、アイリーンは真剣に聞いてくれた。笑いもしないどころか、だんだん、顔が難しくなっていく。 フライヤの話がすっかり終わると、アイリーンはおどろいた顔をかくそうともせず、 「そうかもしれない――いや、そうだ。きっとそうだ。なぜ、誰もそう考えなかったんだ」 としばし絶句した。 「ご、ごめんね? でもこれは、あたしの、ただの想像で、」 「いや、その可能性はある」といきなり立って、部屋中を歩き出した。 「バカな――ケトゥインだと――いや、でも、そう考えればすべてがしっくりくる――あの場所は――だが――アノールは――ではアノールはどう動いた――」 「アノールは動かないわ」 フライヤの言葉にアイリーンの足がぴたりと止まる。 「アノールは、原住民部族の中でも、かんがえかたが柔軟よ。地球人の文明をいちはやく取り入れたのもアノール。だから、アノールは惑星間の部族交流もおおいの。L03のアノール族は、L8系にいるアノールとも連絡を取っている――だから、L20の軍隊には友好的。L87では、ラグバダの過激派から、何度も助けられたことを知っているからアノールではないとおもう。あたしの考えでは、エラドラシスに見せかけた、すべてケトゥインの――」 フライヤはまた、調子に乗って言いすぎたとでもいうように、声の音量を低めていった。 「フライヤ――君は、」 アイリーンは、フライヤの見識に舌を巻き、言葉を失った。 だがまたすぐに、なにかぶつぶつ言いながら、あちらこちらと部屋じゅう歩き回って、ようやくソファに戻ってきた。 「僕は、君が、頭がいいことは知っている――でも、」 意味深なことを言いかけて、アイリーンはまたフライヤに背を向けてぶつぶつと何か言い、頭を抱え――「僕は、よけいなことをいったかも」としょんぼりと、肩を落とした。 「アイリーン?」 やはり気分を害したのだろうか。フライヤが謝りかけると、アイリーンのほうが先制した。 「謝らないで。僕は、気分を害したわけじゃない」 「――ほんと?」 「ああ――ただ、君の才気を見誤ったと、おもっただけだ」 フライヤが首をかしげるのを見、アイリーンは嘆息した。 「――君、僕に教えてくれた今のことを、レポートには書いた?」 アイリーンの問いに、フライヤはおずおずとうなずいた。 「は、恥ずかしながら……書きました」 「……」 アイリーンは、今度こそソファに腰を落ち着けると、やっとケーキを切り分けて、フライヤの皿に置いた。 けれどその顔は、ひどく沈んでいるように、フライヤには見えた。 「アイリーン?」 フライヤが恐る恐る顔色を伺うと、アイリーンは「なんでもないんだ……ほんとうに」と、ようやく笑みを見せた。だが、その目は潤んでいるようにも見えた。 アイリーンは気分を害したのではなさそうだったが、急に元気がなくなったので、フライヤは心配した。 「どうしたの――だいじょうぶ? アイリーン」 「うん――だいじょうぶ」 そう言いつつも、彼女はぽろぽろと涙を流し始めてしまったので、フライヤはあわててアイリーンの肩を抱いた。 「ちょ、ほんとに、気分悪いの? だいじょうぶじゃないんじゃない? アイリーン」 (きっと、フライヤはミラ様に連れて行かれることになるだろう) アイリーンは予測し、自分の予測したことはたいがい外れないということに、怒りすら覚えた。 フライヤの提出書類は、おおいにミラの目を引くだろう。 アイリーンは、フライヤを心理作戦部に入れ、そばに置きたいと願っていたことは、微塵も口にしなかった。ミラがフライヤの才能を認めたならば、アイリーンは進言し、フライヤを自分の秘書官としてそばにおくつもりだった。 フライヤは元傭兵だが、エルドリウスの妻でもあるし、ウィルキンソン家の肩書もある。エルドリウスの承諾があれば、それは叶うだろう。アイリーンが、フライヤを戦争に出さぬと約束すれば、エルドリウスもきっとうなずく。 彼女の才能を、庶務部などで埋もれさせておくのは惜しい。けれど、戦争には出したくない。じぶんのそばに置けば、それができる。 フライヤの才能をいかし、尚且つ戦争には出さない、そう、したかった。 だが、フライヤの見識と推察力は、アイリーンの予想をはるかに上回っていた。 もし、さっきアイリーンに告げたような事柄が、提出書類にいくつも書かれているとしたならば、フライヤの行く場所は――。 (僕は、失敗した) アイリーンは、ミラへの進言を、心から後悔した。 フライヤの未来を広げたい――でも、戦争には行かせたくない。 その望みは、かなわないかもしれない。 (お茶会の終わりだ、アイリーン) ミラと話をしたあの日に。 ――フライヤの未来は、僕の手から、離れたんだな。 |